愛する子どもにコジキ根性を植え付ける親。

こんにちは。ダイキ(@daiki)です。

少し気になった体験をしたので疑問を明確にしつつ、気持ちを書いていこうと思います。

 

不安に思ったある家族のレジ事件

こんなことが起きました。

僕がレジに並ぼうとしていると前に一人の女性が(推定ママ)。その女性はぱっと見たところ、荷物を持っていないように見える。「よし荷物少ないぞ」と。レジが混む時間だったので、荷物が少なそうなその女性の後ろに並びました。並んでよく見ると、その女性は何も持っていない。1分後くらいに大きなカートに幼女(推定娘)を乗せ、カゴ2つを商品でパンパンにした男性(推定パパ)が合流した。

これが一連の流れです。これ、どう思いますか?

まず僕は嫌な気持ちになりました。並ぶ行為に関して「商品を持ってないで並ぶ」。良いことでしょうか。そして申し訳なさそうに割り込むわけでもなく、「当然でしょ?」というような顔で割り込んでくる。そのカートに乗る娘は「これはママが先に並んでいたから当たり前だ」と認識するようになるでしょう。

 

正義を語りつつ子どもを育てる現実

子どもは親を見て育ちます。最大の教育者はその子にとって「親」なのではないかと思うのです。

では、親は子どもをどう「思い」教育をするのでしょうか。「立派な人になってほしい」「愛がある人になってほしい」「正義を大切にする人になってほしい」。結婚していなければ子どももいない僕にとってみれば全て想像ですが、このように思いながら教育をするのではないでしょうか。

 

愛を与えていく子どもに、今日のレジ事件のようなことをするのは、子どもの為になるのでしょうか。

哲学の授業で、ほとんどの人が快楽主義の枠の中で生活していると習いました。

今日のレジ事件は「自分自身の快楽」しか考えていないのです。その快楽が「他者が嫌がるライン」を無意識に越えてしまったのです。これは今回だけではなく、よく見られる光景です。

 

その一方で「自分にやれれて嫌なことは、友達にやってはいけない」と親は教えるでしょう。親は快楽主義なのに。快楽の上の価値観として存在する正義を望めというわけです。もう矛盾しましたね。

 

ミャンマーの難民についての記事を前回書きましたが、世界の平和を考えると、身近も平和ではないと思いました。人に対する愛情よりも、自分の快楽を優先していると思うのです。

<合わせて読みたい>ミャンマーの難民について書きました。

 dai散歩 
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誰でも快楽主義に陥る

とはいえ、私も人のことを偉そうに言えるわけではありません。レジ事件を自ら起こしたこともあります。一番簡単に手に入りやすい価値が快楽であり、自分を満たすことができるので、ほとんどの人が快楽主義に陥るのではないかと思うのです。だから仕方ないのかも知れません。しかし、それで「平和」「正義」と叫んでも無駄です。気づいた時に、気づいた人が声をあげて、そこに少しでも人を巻き込んでいく。「気づかせていく」という波が必要だと考えました。

 

快楽主義に陥った時に、気づかせ合うシステムが必要だと思うのです。

そうしなければ、僕たち大人の背中を見て育つ子ども達は「快楽主義」にとどまり、それより上の価値を見出せない=平和でない世界に住むことになるでしょう。快楽主義は「他者より自分の快楽だけを優先」してしまうのではないでしょうか?


この理論から言うと、僕の気持ちを一言、あの人たちに伝えればよかったなぁと思いました。これが気づかせ合うシステムの波のもとになったかもしれません。よく考えれば、「言う時に勇気」が必要です。その勇気を出す時に、「自分の考えって正しいのか」と思考が始まり言う瞬間を逃していたことに気づかされました。