人それぞれ」は知った気になっているだけ。

人それぞれ」は知った気になっているだけ。

 

こんにちは。大学3年のダイキ(@daiki)です。

題名が『「人それぞれ」は知った気になっているだけ。』となっています。全てに当てはまるというわけではないかもしれません。当てはまることが多いかもしれないと思って書きます。

今回のテーマは「多様を認める」ということについてです。

サークルのミーティングで参加者が少なくて困っている時、「来て欲しい」と私は発言します。当事者に対して「どうしてこれないの?」とある程度踏み込んで話を聞かせてもらいます。そんな私を見ている周りのメンバーは私をナダメル意味と忠告の意味で「みんな違うんだからさぁ」「あの子だって忙しいんだからさ」「人それぞれなんだよ」と言われることがあります。影で多様性がないような言い方をされる時があります。

多様を認めるということはどういうことなのでしょうか。

私の考える結論を先に提示します。

踏み込んで知ろうとすること」です。

このステップを踏んで「相手を知った時」、初めて多様になるのではないかと思います。

 

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そもそも多様ってなんだ?

多様の意味ってなんでしょうか。辞書を引いてみました。

いろいろと種類の違ったものがあること。また、そのさま。さまざま。

デジタル大辞泉より

「様々なものや、考え方がある」というふうに考えられそうですね。

この理論からいくに、多様を認めるとは、「様々なものや考え方があると肯定する」というふうになりますかね。

多様という言葉に監視されている現代

私たちは多様という言葉を恐れているように思えます。あの人は多様でないから、と言われるのを恐れている気がするんです。多様でないと言われた時、常識はずれのレッテルを貼られたと感じてしまうのではないかと思うのです。急に不安になったりするのではないでしょうか。

それに恐る私たちは「多様」という言葉に対して、無気力に服従しているように思えるのです。

批判しなければ本当の多様には出会えない

多様だと思うものがどうして多様なのか、考えたことはありますか?

文化は多様だと多くの人がいいますが、本当でしょうか?どこに根拠があってそうドヤ顔をしていうのでしょうか。文化は多様であるはずなのに、宗教に対して日本が寛容で無い理由はなんですか?ミーティングにこない人を見て「人それぞれだよ」という発言はどこをどう見て人それぞれなのでしょうか。人それぞれだと本当に理解していっているのでしょうか。自分以外の人を見て「その人でもないのに」なぜひとそれぞれだよと言えるのでしょうか。知っているのですか?と言いたい。自分の世界に当てはめて、あたかも知っているかのように「人それぞれじゃん」といっているようにしか思えないのです。

「どうして多様なのか」を考えたり、対話したりして検証していかなければならなりません。

私たちは何も知らない。

私たちが「知っていること」というのは数少ないはずです。自分のことだってよくわかりません。私は疑問を抱いています。私がいわれてきた「ひとそれぞれじゃん」という言葉に疑問を感じているのです。

人それぞれであるかどうかなんて、その人に検証してみないとわからないんです。踏み込んでみないとわからないんです。だから私は踏み込む必要があると考えるのです。

「知らないこと」に踏み込まなければ始まらない

知らないのなら踏み込みたい、私はこう考えているのです。哲学の講義でこんな考え方を知りました。理解しやすい面白い話なので紹介します。

A君のことを知りたければA君を宇宙として捉えなければいけない。宇宙は地球(自分の世界)の外に広がる。したがってA君のことは自分の世界に当てはめて考えることができない。

という考え方です。大切なのは「自分の世界に当てはめて考えることができない」というところです。つまり自分の世界で無いために「分からない」のが普通なのです。「人それぞれだよ」という発言は無気力であり自分の世界の中だけで考えた想像です。A君が考えていることはA君が宇宙であるためにわからないんです。相手が宇宙なのでそもそも世界が違います。自分の世界に当てはめて想像しただけなら「知った気になっている」だけです。だから「わからないから教えてよ」と踏み込んで聞いてみるしかないのです。これをしたところでA君の全てを理解できるわけではありません。しかし断片的にでもA君を知ろうとすることはできると思うのです。何もせず「人それぞれだよ」といっているより、A君のことを知ることができるはずです。

したがって私は知らないからこそ踏み込んでいくことが大切で、それをしていくことが本当の意味で多様なのだと、考えます。