献血する人へ本気で「ありがとう」を伝えたい。

献血する人へ本気で「ありがとう」を伝えたい。

寒くなりましたね。

こんにちは。ダイキ(@daiki)です。

みなさん献血って知ってますか?

今日は以下の人に向けて書いていこうと思います。

献血をしている方

・話を聞いたその後輩

 

献血とは。

 

無償で供血することです。つまり自分の血をわける、ということです。その血は、輸血を必要としている人(患者)に使われます。

 

後輩から「献血してるんですよね」と。

昨日後輩とご飯を食べた時に「先日献血に行ったんですけど・・・」という発言が。暖かい気持ちになりました。「私はこういう人によって命が繋がってるんだな」と思ったんです。

 

私は病気だった。

私は急性骨髄性白血病という病気でした。白血病だったんです。中学3年の12月に発覚して高校1年の8月まで入院しました。今は完治しています。完治まで私を支えてくれたのが「献血」だったのです。

治療中は抗がん剤を用いた影響で血液が減少します。赤血球(酸素運搬)・白血球(抵抗力)・血小板(止血作用)が失われます。その時、一時的に輸血(献血で集まった血を使うこと)をして血液数値の立ち上がりを待っていたのです。輸血がなかったらこの治療はできず、今生きていることはできなかったのではないかと思います。

後輩がいたから、生きられた。

ちょっとオーバーぎみに書きましたが、こういう人の心が「私を生かしてくれたんだなぁ」と思うのです。私に血液を恵んでくれたのは誰だかわかりません。だからこそ、その後輩を見てとても嬉しくいなりました。そしてそういう後輩や人がいる世界を誇りに思うのです。本当にありがとう。

 

献血をしている方へ

献血をしているのは、その後輩だけではなく、たくさんの人のボランティア精神で成り立っています。献血している人は「誰かの命を実際に助けている」という感覚には繋がりにくいかもしれません。頭では知っていると思いますが。

しかし私はその献血を輸血したことで、今生きています。言葉では表せないほど感謝しています。ありがとうございます。

 

献血できないこれからの自分

輸血を受けた人は献血はできない決まりになっています。したがって、献血に感謝し、「大切だ!」と身をもって感じている私自身は献血にいけないのです。直接恩返しをすることができないのです。これがとてももどかしいです。

だからこそ、献血の恩恵を受けたということを発信したいと思い記事を書かせていただきました。今後、献血を推進する活動に携わりたいです。

献血をしてくださるあなたの行為が誰かの命を支えます。

 

「どうして献血したのか」後輩に聞いてみた。

最後にその後輩にどうして献血をしたのか聞いてみました。

きっかけは父親です。よく父親が仕事帰りに献血をしてくる事があって、なぜするのか聞いたら、血を抜くと新しい血を作る機能が高まって、全身の血を入れ替えることが出来るから自分の健康にも良いと聞きました。そして自分の血が必要な人がいるのも知って献血しない理由はないと思いました。

元々注射好きだったから、ということもあって、単なる好奇心で初めての献血に行きました。その時に付属でもらったパンフレットを読んで「私の血は何に使われるのか」調べてみました。
そこで改めて、献血で人の命を救う事が出来ることを知りました。今病気で苦しんでる人がいる。そして、今健康な自分がいる。少しの行動で他人の未来を助ける事が出来るかもしれない。という思いで今は献血をしに行きます。

 

この後輩は5.6回献血しているそうです。この記事を書こうと思ったのも、この後輩のおかげでした。どこへ向かって感謝していいのか本当にわからないので代表で「私に血液を分けてくださった方々」と「後輩」に感謝したいと思います。ありがとうございました。

 

献血をお願いします。

献血をできる機会があったら、ぜひ足を運んでいただきたいと思います。私にはできないので偉そうなことは言えないですが、献血のシステムが多くの人を救っていることは確かです。

病気だけではありません。交通事故でも、出産場面でも様々な場面で輸血は必要です。誰でも使う可能性があります。

助け合いだと思うのです。本当に自分が貢献できないことがもどかしいですが、ぜひ、ご協力お願いします。

 

今日も最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

愛する子どもにコジキ根性を植え付ける親。

こんにちは。ダイキ(@daiki)です。

少し気になった体験をしたので疑問を明確にしつつ、気持ちを書いていこうと思います。

 

不安に思ったある家族のレジ事件

こんなことが起きました。

僕がレジに並ぼうとしていると前に一人の女性が(推定ママ)。その女性はぱっと見たところ、荷物を持っていないように見える。「よし荷物少ないぞ」と。レジが混む時間だったので、荷物が少なそうなその女性の後ろに並びました。並んでよく見ると、その女性は何も持っていない。1分後くらいに大きなカートに幼女(推定娘)を乗せ、カゴ2つを商品でパンパンにした男性(推定パパ)が合流した。

これが一連の流れです。これ、どう思いますか?

まず僕は嫌な気持ちになりました。並ぶ行為に関して「商品を持ってないで並ぶ」。良いことでしょうか。そして申し訳なさそうに割り込むわけでもなく、「当然でしょ?」というような顔で割り込んでくる。そのカートに乗る娘は「これはママが先に並んでいたから当たり前だ」と認識するようになるでしょう。

 

正義を語りつつ子どもを育てる現実

子どもは親を見て育ちます。最大の教育者はその子にとって「親」なのではないかと思うのです。

では、親は子どもをどう「思い」教育をするのでしょうか。「立派な人になってほしい」「愛がある人になってほしい」「正義を大切にする人になってほしい」。結婚していなければ子どももいない僕にとってみれば全て想像ですが、このように思いながら教育をするのではないでしょうか。

 

愛を与えていく子どもに、今日のレジ事件のようなことをするのは、子どもの為になるのでしょうか。

哲学の授業で、ほとんどの人が快楽主義の枠の中で生活していると習いました。

今日のレジ事件は「自分自身の快楽」しか考えていないのです。その快楽が「他者が嫌がるライン」を無意識に越えてしまったのです。これは今回だけではなく、よく見られる光景です。

 

その一方で「自分にやれれて嫌なことは、友達にやってはいけない」と親は教えるでしょう。親は快楽主義なのに。快楽の上の価値観として存在する正義を望めというわけです。もう矛盾しましたね。

 

ミャンマーの難民についての記事を前回書きましたが、世界の平和を考えると、身近も平和ではないと思いました。人に対する愛情よりも、自分の快楽を優先していると思うのです。

<合わせて読みたい>ミャンマーの難民について書きました。

 dai散歩 
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こんにちは。ダイキ(@daiki)です。11月16日、写真展に行きました。ミャンマーの難民であるロヒンギャについての写真展でした。みなさん難民ってご存知ですか? 難民とは人種、宗教、国籍、政治的意見やまたは特定の社会集団に属するなどの理由で、自国にいると...
 

誰でも快楽主義に陥る

とはいえ、私も人のことを偉そうに言えるわけではありません。レジ事件を自ら起こしたこともあります。一番簡単に手に入りやすい価値が快楽であり、自分を満たすことができるので、ほとんどの人が快楽主義に陥るのではないかと思うのです。だから仕方ないのかも知れません。しかし、それで「平和」「正義」と叫んでも無駄です。気づいた時に、気づいた人が声をあげて、そこに少しでも人を巻き込んでいく。「気づかせていく」という波が必要だと考えました。

 

快楽主義に陥った時に、気づかせ合うシステムが必要だと思うのです。

そうしなければ、僕たち大人の背中を見て育つ子ども達は「快楽主義」にとどまり、それより上の価値を見出せない=平和でない世界に住むことになるでしょう。快楽主義は「他者より自分の快楽だけを優先」してしまうのではないでしょうか?


この理論から言うと、僕の気持ちを一言、あの人たちに伝えればよかったなぁと思いました。これが気づかせ合うシステムの波のもとになったかもしれません。よく考えれば、「言う時に勇気」が必要です。その勇気を出す時に、「自分の考えって正しいのか」と思考が始まり言う瞬間を逃していたことに気づかされました。